更新日: 2005/12/19
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【偽日記】2003/10/15〜10/17 「少女革命ウテナ論」(ネタバレが全開なので注意)
【OK's Book Case】経由で発見。大変面白かった。今まで読んだなかで、一番納得できる解釈だった。
以下ネタバレありなので、ウテナ未見の人は、ネタバレ終了マークまで飛んでください。
アンシーとウテナの関係は、目ウロコです。そうだったのかー。言われてみれば明白なんだけど、全然気づかなかった。私が気づかなかったのは、多分理由があるんだろう――と思う。(←これが抑圧ってやつ?)
ここであっさりとネタをバラしてしまえば、アンシーこそがウテナの真の外傷であり、ウテナが抑圧し、隠蔽しているものの体現者であると言える。だから、ウテナとアンシーは同一人物であり、その証拠に、最終話でアンシーが「解放」されると、この物語世界からウテナは姿を消してしまう。この物語を大雑把に要約するとすれば、囚われのお姫様を王子様が解放するという話の、ひどく複雑化されたバリエーションなのだが、ここでは、救出されるお姫様も、救出する王子様も同一人物であるのだ。
今まで、天上ウテナの性格のフラットさが不思議でならなかったのだけれど(有栖川樹璃と比較するとよくわかるけど、ほとんど悩まないよね、ウテナ)、もともと半分しかない存在だったとすれば納得がいく。
どうやって解釈すればいいのか悩んでいた劇場版の『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』のラストも、アンシーとウテナが同一人物だということが分かれば、すっきりと腑に落ちる。
『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』が、自分のせいで恋人を死なせてしまった少女(ウテナ)の再生の物語であり、学園が少女の内宇宙だというだというところまでは理解できたのだが、アンシーの存在がどういうものなのかが、いまひとつ理解できなかったのだ。
今思えば、内宇宙なんだから、出てくる人物は全部少女(ウテナ)の分身に決まっているんだけど、それに全然気がつかないというのは、つまり気づきたくなかったということなんだろうなぁ。アンシーの存在は、ウテナだけでなく私にとっても「外傷」であるということか。
そしてアニメは、現実を反映するだけでなく、現実に大きな影響を与える。例えば『美少女戦士セーラームーンR』という作品は、アニメの見巧者たるオタクだけによって消費されるものではなく、あくまで女の子向けのアニメであって、これに熱狂した(非オタクである)幼い女の子に現実的に与えた(まさに「外傷」としての)影響は多大なものがあるだろう。(東氏や斎藤氏は、男性のオタクにしか興味がないみたいだから、このような視点はきれいに欠落している。)そして実際に、『美少女戦士セーラームーンR』の作者でもある監督の幾原邦彦や脚本家の榎戸洋司が、『少女革命ウテナ』という奇怪ともいえる作品をつくりださなければならなかったのは、自らの生み出した『美少女戦士セーラームーンR』などに多大な影響を受けて成長したであろう女の子たちに対する、ある種の落とし前でもあるように感じられる。そのような意味でも『少女革命ウテナ』は女の子のための物語であり、だから、それを美少女キャラを性的に消費しようとする視線で観るヘテロセクシュアルの男性に、観ている間じゅう常に強い緊張を強いる。
【偽日記 03/10/15】
男性(だと思うんだけど)で、こういう視点で語れる人は凄いなと思う。
でも、「女の子たちに対する、ある種の落とし前」だったとしても、アニメ版の『少女革命ウテナ』は女の子たちを救ったわけじゃない。むしろかえって辛い立場の追いこんで、新たな「外傷」を与えただけだと思う。
だって、「王子様は敵だ――君はひとりで門を出ていかなくちゃいけない」なんてメッセージをいきなり(39話あったって、充分「いきなり」だ)突き付けられて、立ち竦まずにいられる女の子がいるだろうか。絶望のあまり死んじゃう子が出てきてもおかしくない状況だ。(もっとも実際には女の子たちは、TVのスイッチを切って「見なかったこと」にして、暁生×冬芽本とか西園寺×冬芽本なんてのを作りはじめたんじゃないかと思うが。)
追記2003/10/24:
女の子に「王子様はこない、君はひとりでドアを開けなくちゃいけない」と最初にいったのは橋本治ですが、橋本治は女の子を一人でほっぽり出したりはしなかった。桃尻娘シリーズの最後で、醒井凉子と木川田君は、作者に祝福されて学校に還っていくのだから。
ビーパパスの唯一の女性メンバーであるさいとうちほは、そのことを理解していたはずで、だから漫画版の『少女革命ウテナ』のラストはアニメ版のラストとは大きく異なる。
ウテナが消えた後に残されるのは、「王子未満」の冬芽と「解放された」姫宮アンシーなのだ。
「もう… 会えないのか」と、ウテナが消えたことを嘆く冬芽に、アンシーはいう。「―― ウテナさまは 生きています」「世界は まだ 革命されて いない」「私たちが もう一度 出会ったときに それは 始まるんです」
ウテナは女の子の希望の象徴として生き延びる。
革命は決して始まることはないかもしれないけれど、それでも希望があれば女の子は生きていけるのだ。
私は漫画版のラストに満足しているわけではないが、こちらのラストの方が女の子にとってはずっとマシだと思う。
ちなみに漫画版のアンシーは、ウテナを裏切らない。暁生と相打ちになったウテナは、ディオスを取りこんで暁生とともに消える。少女漫画の表現としてはこれが限界だったのかもしれないが、裏切るほうが真実だと思う。
そして話は、『少女革命ウテナ』のヴァリエーションである『プリンセスチュチュ』の話に繋がる予定。
アン・マキャフリー/赤尾秀子訳 『だれも猫には気づかない』(東京創元社 ,2000年4月,1,400円+税, ISBN4-488-01397-X)読了。
時は中世。エスファニア公国の若き公、ジェイマス5世の老摂政が亡くなった。先見の明をそなえた摂政は、摂政自身の飼い猫・ニフィを隠れ"摂政"として残していった。
ある日、エスファニア公国を狙う隣国の国王とその姪たちが親善訪問にやってくる……。
つまらない。赤川次郎の〈三毛猫ホームズ〉シリーズを始めとして、猫を探偵役にもってくる小説は多いけど、はっきり猫がしゃべるファンタジー物やSFを除くと、あんまり面白いものはないのだ。普通の猫にできることはたかが知れているのに、無理矢理それを中心にもってくるからだと思う。この作品も例外ではない。
こんな作品、ハードカバーで出さないで欲しい。
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文庫版
・アン・マキャフリー/著 赤尾秀子/訳 『だれも猫には気づかない』
( 創元推理文庫,2003年2月,540円+税, ISBN4-488-59701-7)
ISBN4-488-59701-7 【bk1/amazon/boople/Yahoo!】【blogmap】
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日曜日にDVDの『プリンセスチュチュ 3』を見て、今日届いた『プリンセスチュチュ 1』を見て、サウンドトラックを半分聴いて、公式ガイドブックを2冊読んでおなか一杯。
消化できるまで、しばしかかりそう。
最初の頃はわりとフツーの魔法少女物だったんですねぇ。いや、2話目のアリクイ美ちゃんは、凄かったけど。なんでアリクイ……。脚本は横手美智子。大好きな脚本家なんですが、時々力をいれるところがヘンなんだよね。ふぇみおが出てくる回も横手美智子でした。
私はいきなりオチの部分から見ちゃったのねというのが分かりましたが、そういう変則的な見方で悪くなかったと思います。最初から見ていたら、こんなにハマっていなかったかもしれません。
5話までのふぁきあって、酷いキャラだわね。まさか話が進むにつれて、あんなになるとは。(12話の赤面ふぁきあに萌え萌え〜。)
それにしても「愛を告げると光の粒になって消えてしまう」という逆人魚姫みたいなプリンセスチュチュのネタ元はなんだろう? 一番近いのは金蓮花の『蝶々姫綺譚』なんだけど、ひょっとして、ちょーちょ姫→チュチュ姫なのか? ペンダントも蝶々型だしねぇ。
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美容院にいった。
古雑誌とダンボールを使ってアニメダイエット用の踏み台を作った。
アニメ見ながら上り下りしてると、噂通りうっすら汗をかくぐらいの運動になる。散歩やパワーヨガより楽なので、こっちに切り替えようかな。見るものは同居人のアニメのビデオが腐るほどあるし、『プリンセスチュチュ』や『ツインピークス』を最初から見なおすという手もある。
伊坂 幸太郎『ラッシュライフ』(新潮社 新潮ミステリー倶楽部 ,2002.7,\1700+税, ISBN4-10-602770-4)読了。
交錯する十余りの人生
併走する五つの物語
歩き出すバラバラ死体――
収斂するは、一枚の壮大な騙し絵
(帯より)
「壮大」かどうかは別として、あらゆる伏線がからまりあって、最終的に一枚の絵――表紙カバーに使われているエッシャーの騙し絵にも似た世界――に組みあがっていく。凄い凄い。
拝金主義の画商と金で買われた画家、美学を重んじる泥棒、世界の法則を見とおす「教祖」を崇める青年、お互いの配偶者の殺人を企てる男女、ノラ犬と出会う失業者。五つの物語の登場人物の送る人生は、Lash life だったり、Lash life だったり、Rush life だったり、Rash lifeだっり……。
この構成はチュンソフトのゲーム『街』を思い起こさせます。
あまりに人工的すぎる造りがダメな人もいるでしょうが、私はこういうアクロバッチックな作品が大好きなので、とても楽しめました。1回読んだだけじゃ伏線のつながりが掴みにくいので、再読しなければ。
いまだに分からないのは、老夫婦がどういう存在かということです。プラカードの白人女性と同じく重要ではあるけど名前のない人たちなのかな? それともどこかで他の作品とつながっている人たちなのでしょうか。
作品中で言及されている映画館爆破未遂事件(p.135)は、『陽気なギャングが地球を回す』、喋るカカシは(p.129)『オーデュポンの祈り』だと思うんですが、
伊坂幸太郎の描く女性キャラ(特に京子)や中年男性キャラ(豊田とか『重力ピエロ』の父親とか)は、恩田陸作品のキャラクターに似ているような気がします。『象と耳鳴り』の関根多佳雄なんて、伊坂作品に放りこんでも違和感なさそうだし。ひょっとしたら伊坂幸太郎は、「パズルの巧い男性の恩田陸」なのかも。
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ISBN4-10-602770-4 【bk1/amazon/boople/Yahoo!】【blogmap】 【bk1(02206189)】
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例えば映画の『地獄甲子園』なんかを観た友人に、「その映画はいったいどんな文法で書かれてるの? マンガをそのまま映像化したの? それともちゃんとした映画っぽく撮ってあるの?」と訊ねるとき、自分はなんの疑問もなく「どういう世界観なの?」とか使ってそうな気がする。こういう用法に、引っかかる人もたくさんいるのかもしれない。
おおっとぉ〜、そこで「世界観」という言葉を使うのか。そうなのかー。
私のボキャブラリーでいったら「手法」ですかね。
前にも書いたけど、オレにとっては『キャラクター小説の作り方』とかで触れられていた、「世界観はちょっと前までに存在しなかった」っていう説明がすごくショックで、今でも信じられない。なんかね、「百年前に大地は存在しなかった」と言われるのと同じようなショック。「世界観」って言葉を使わずにどうやって生活していたの?!みたいな感じで。そのくらい、自分には「世界観」って言葉が身近で無反省なだったんだろうナァ、とか。
私はいまだに「世界観」という言葉に馴染めないでいます。「世界設定」でいいじゃんよ、と思うんですけどね。
「世界観」と呼ぶ理由は、大塚英志が『キャラクター小説の作り方』で詳しく書いていますが。
「世界観」とは繰り返しますが「世界」の「観」方です。作中のキャラクターが「世界」をどのように「観」て、受けとめるかということがキャラクター作りにおいて不可欠であり、同時に「世界観」作りにおいて最も見落とされている点でもあるのです。「設定」とかつて呼ばれていたものを敢えて「世界観」と呼び換えたことの意味は多分、そこにあります。「世界観」とは読者がキャラクターの目を通じて「観る」世界でなくてはいけません。
大塚英志『キャラクター小説の作り方』p.221
ゲームだったら、私も抵抗なく「世界観」っていえるのです。自分がその世界の中のキャラクターになっているから。ゲーム内のキャラから観える世界の姿と世界のルールだから、「世界観」でもオッケー。そこで「世界設定」といってしまうと、ゲーム内のキャラではなくてゲームを作った「神」の視点からの言葉になりますね。
小説の「設定」に対して「世界観」という言葉を使うことに対して私が抵抗を覚えるのは、そのあたりに理由がありそうです。小説の読者は、必ずしも小説内のキャラクターと同一化しているわけではなく、時として「神」に同一化していることだってあるのに、「世界観」という呼び方はないだろう、と思ってしまうのですね。
「世界観」というのは、あくまでも世界の中から世界をみたときの呼び方であって、外から世界をみたときには、「世界設定」と呼ぶのがふさわしかろうというのが、私の感覚です。
でも実は、「世界設定」という概念も、(日本では)1960年以前には存在しなかったんじゃないかと思いますけどね。
「今ある世界(現実)」と「かつてあった世界(歴史)」以外の「世界を作りだそう」なんてことは、SF作家とトールキンとC・S・ルイス以外は考えなかったわけで。「今ある世界」の中に架空の国を作り出す人はいたとは思うのですけれど。
SFには「パラレルワールド」という概念がありますから、SFで育った人は「世界観」=「キャラクターの目を通じて「観る」世界」だということに意識的なんじゃないかなと思います。作家でいうと上遠野浩平とか古橋秀之とかね。
むしろゲーム小説的ファンタジーで育った人のほうが、「世界観」という言葉を連発する割には、そのあたりに無頓着なんじゃないかな。
「スレイヤーズ」とか全然異世界という感じがしないし。
一つは現代社会のバリエーションとしてしか世界が描写されていないという点。もう一つは主人公のメンタリティが現代人(というかティーンエイジャー)そのものという点。リアルな日本を舞台にすると制約が多いから、その制約をはずすために別世界にしました、みたいなところがあって、どうにも。
【FREIHEITSTROM 2003/10/16】
『スレイヤーズ』は、まだマシなほうじゃないかと思うんですが、「リアルな日本を舞台にすると制約が多いから、その制約をはずすために別世界にしました」というような作品が多いと私も思います。
あー、あとファンタジー年表云々で思い出したんだけれども、せっかく「The Sneaker」全号あるんだし、10周年だし、なんかデータベース的なものでも作ってみっかなぁ。暇があったら、だけど。
【apolune:2003/10/21 世界観について】
作っていただけると嬉しいです。期待してます。
スニーカー大賞受賞作の詳しい情報なんてのがあると、個人的には嬉しい。
ダブリ雑誌については、後でメールします。(日記と違って、メールは気合いれないと書けないので、しばしお待ちを)
「SF+パラレルワールド+歴史」でぐぐったら、こんなのがヒット。
なんと「ヤングアダルトにおけるジュヴナイルの再生」なんて言葉がでてきますよ。
【グループSNE:今月のクローズアップ:1999年11月 ルナル・サーガ・リプレイ 魔獣の夢篇】
【グループSNE】は2chの「誰が日本のファンタジーを駄目にした?」で槍玉にあがったりしてました。
実際、グループSNEが日本のファンタジー観を変えてしまった(ゲーム小説にしてしまった!)のは間違いないんだけど、そんなに質の悪いものを作り出したわけじゃなく、むしろそこそこ良いものを作り出したがゆえに、以後はそのフォロワーが縮小再生産を続けるようになったんだと思います。
以下はネットの知人の文章。
あんまりリンクされたくなさそうなのでリンクはしませんが、以前「どの部分でも転載してもいいです」と許可をもらったので、転載します。
ほとんどライトノベルを読まない人なのですが、部外者ゆえに思いきりよく要約してくれて分かりやすいです。
2003.10.03 (金)
■ 若者向けの小説の変遷
だんだんわかってきたぞ(自分の中では)。文学→マンガ化→ゲーム化、だな。なんとなく。
文学ってのは教養小説とか児童文学とか私小説とか。それが、マンガ家の表紙絵やイラストによって視覚化してくる。ゲーム化ってのは、シナリオ化してくる。だんだん「文学」じゃなくなってくる。話の筋はユーザーの能動的な関わりによって(ある範囲の中で)どうとでもなる、というか、一つじゃなくていろんな可能性がある、という了解があるような気がしますね。
ゲーム化の次には何がでてくるんだろうと考えて、どうして東浩紀『動物化するポストモダン』には「データベース」が出てくるのかが腑に落ちたり。
2003.10.09 (木)
■ あとがきというメディア
ふと思ったのですが。若者向けの小説の変遷を探っていくうえで、あとがきという要素はどういう位置を占めているんだろう、と。解説ではなくて、作者本人によるあとがき。
どこかで、作家のヒトリゴトめいたものから読者へ語りかけるものへと変化したのじゃないか。たとえば続き物の小説で人気投票をするとか、キャラにバレンタインのチョコが来たのを報告するとか、双方向性を持つようになってきたところもあるのじゃないか。また、本編とは別の、作家の周辺に関するものが売りモノになってきたのじゃないか。
それは連載マンガのハシラにも似ているかもしれない。コミックスについてくるオマケのマンガも、そういうとこがあるかもしれない。それは作家と読者との距離感にも関連が? なんてね。
ファンとの交流を最初にやりはじめたのは、平井和正じゃないかという気がします。あと栗本薫。どちらもマンガ界ととても近いポジションにいた作家なのは興味深いですね。
(でも作家と読者の距離が近いと、ロクなことにならないような気が……。)
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【秀@いわゆる日記】さん主催によるチャット大会(告知)に参加しました。
知的に面白かったです。amusingというよりinteresting。脳みそに刺激的でした。まさにブレインストーミング。
参加者は、秀さん、saitouさん、青木摩周さん、タカアキラさん、MZTさん、加藤隆史さん、第弐齋藤さん、林哲矢さん、kagamiさん、堺三保さん、私(有里)、遅れてヒラマドさん、一歩さん。メインは30代ぐらいの人なので、雑誌『ウォーロック』を読んでいた人が多かったです。
ログは以下に。
http://www.angel.ne.jp/~hidden/diary/img/20031025_chat.html
感想は、 [Aliログ:ファンタジーを語るチャット大会] にまとめました。
ログが公開されたので、出てきた作品名などをまとめておこうかと思います。
主催者の秀さん、参加者の皆さん、ありがとう。
えーと、【第弐齋藤】さんへ。
正確には「新井素子はある時期からは女の子に影響をあたえていない」です。多分、花井愛子の出現以降は、新井素子は少女小説にとっては過去の人です。「あたし」小説が氾濫しちゃったからです。
新井素子の少女口語一致体(と、それで紡がれる物語)に触れたときに、現に少女であったような人が感じるのは「似て非なるもの」的な違和感、 具体的に言葉にしてみれば「何か違う」とか「気持ち悪い」とかそういうことだろう。 とずっと思ってた。 新井素子の少女口語一致体は、現に少女であったような人が使っていた口語などではなく「似て非なるもの」なんだろうな、と。
新井素子の「少女口語一致体」は、「口語」ではなく「内部言語」です。女の子が物を考えるときの言語、自分の中で対話するときの言語、日記あるいは親しい友人に手紙を書くときの言語です。新井素子自身も、どこかでそれを書いていたはず。男性でそれを最初に指摘したのは、橋本治です。新井素子の話だったか、桃尻語の話だったかは忘れましたが。
新井素子と同世代の女性なら、たいていの人はそういう「内部言語」をもっています。少なくとも私はもっています。だから新井素子がデビューした当時、違和感は感じませんでした。(今は感じます。新井素子の文体と私の内部言語とにズレが生じているからです。)
女の子は新井素子の作品に衝撃を受けたりはしなかった……と思います。受けたとすれば、「こういう文章で”小説”を書いてもいいんだ!」という点にでしょう。
新井素子は、女の子が感情移入できる「女の子が活躍する」物語を、女の子の(内部)言語で書いてくれた、最初の作家でした。(もっとも新井素子の「凄さ」は、別のところにあります)
そして、女の子の内部言語で書かれた女の子の物語が増えてきたときに、少女小説家としての新井素子の役目は終わったんだと思います。
……で、男の子は、新井素子作品のどこにどう衝撃をうけたんですか?
なんだか新井素子のポジションというのは、俵万智のポジションに似ているとおもうんですけどねぇ。
「ファンタジーを語るチャット大会」で出た質問。
……あるんだろうか?
……前田珠子と小沢淳しか答えられなかった。調べること。
……アン・ライスの影響は不明。篠原烏童がマンガ化してる。
……『吸血鬼ハンターD』と『ポーの一族』があるのにわざわざライスを読むかなという気がしないでもない。
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[2003/10/24「世界観」という言葉について]への反応。
「世界設定」というのは引用中で言う「世界像」相当といったところでしょうか。
【はてなダイアリー - FREIHEITSTROM:映画にありそーな】
そうか「世界像」という言葉がありますね。「世界設定」だとゲームや小説の作られた世界にしか使えないけど、「世界像」なら現実にも適用可能。
でも、『地獄甲子園』の場合に「どういう世界観?」って訊ねるのは、「どういう世界設定?」ってその世界の事象を訊いているわけではなく、「爆発で人は死ななかったりする?」「奇跡で生き返ったりするの?」とかいう世界の法則を訊いているわけで。
【apolune:2003/10/26 「世界観」という言葉について】
なるほど。「漫画のように記号化された世界の法則」というのが語るに足るべきこととして認識されはじめたのが最近だから、それを的確に表現する言葉がない。だからとりあえず「世界観」という言葉をつかうというということですね。
コピーライター的センスのある評論家がいい言葉を作ってくれるといいんだけどね。大塚英志のセンスはいまいちだと思うし。東浩紀の方が、そういうのは上手い。
【『文壇アイドル論』斎藤美奈子/サブカルアイドルとしての岡崎京子?】
【close/cross; confusion is sex】ライトノベル年表の件で知ったところなんだけれど、「オリーブ少年」だったというsayuk氏によるジェンダー論・フェミニズム論は、いままで読んだことのない論考でとてもスリリング。目からウロコがおちまくり。
「いちばん弱くて小さくて可愛いものこそが世界を変える」「オトコノコが『弱い力』を手にする」ことを語るなら、ぜひ『プリンセスチュチュ』も観て欲しいと思う。(と、布教してみる)
私の日記10/19付けの「宮部みゆきは「L文学」なんじゃないかと思います。>白城さん」への反応。
【White Castle:diary】2003/10/21
もともとは、白城さんのメールにあった「宮部みゆきって、ライトノベルっぽくありませんか?」への暫定的なお返事だったんですけど。
「L文学」というのは、山本文緒・唯川恵の延長線上にあるという意味です。
その後、メールに書いた私の返答
「宮部みゆき」をライトノベルの対象として考えたことがなかったので、
「ええ?」と思いましたけど、うーん……。
私にとってのライトノベルは、アニメやゲームの影響を受けていて「絵がついて
ないと完成品にならない小説」のことなので、宮部みゆきは外れちゃうんですよね。
ただ、「コバルトみたいな文章を書く人」というのはあるかもしれない。
『ステップ・ファーザー・ステップ』は苦しいけど、『夢にも思わない』だったら、
かつてのコバルトの山本文緒・唯川恵の隣にあってもおかしくないですね。
「ヤなものを見」せてしまって、すみませんです。
でもまあ、「L文学」の読者と想定されている層とボーイズラブを読む層との差というのがなんとなく分かりました。
ジェンダー論を意識しながらも現実肯定「ウーマンヘイト」なしが「L文学」の読者で、ジェンダー論を強く意識して現実否定「マンヘイト」「ウーマンヘイト」ありが「やおい」読者という気がします。
ちなみに私はSFファンタジーのジャンル読者なので、「L文学」の読者ではないです。現実肯定あきらめ逃避派「マンヘイト」あり「ウーマンヘイト」なしです。
「L文学」の読者層なんて実在するんだろうかと思わないでもないですが、多分どっかにいるんでしょう。
コバルト文庫は比較的新しいものばかり。最近のブックオフは古いコバルトは買い取らないのかな。古いのは今のうちに押さえとかないとヤバイかもだ。
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ダイエット&シェイプアップのため、パワーヨガだとかダンベル体操だとかいろいろ試しておりますが、ここ1週間は、アニメを見ながら踏み台昇降をする、いわゆるアニメダイエットというのをやっています。アニメはもちろん『プリンセスチュチュ』。音楽があるので、踏み台昇降もそれほど苦になりません。25分でじわっと汗がでてきます。正しい有酸素運動ですね。
踏み台は最初はを贈答品のサラダ油が入っていた空き箱に雑誌を束ねたの詰めて使っていたのですが、つぶれそうなので、ホームセンターでちゃんとした木の踏み台(高さ20cm)を買ってきました。
あとは「ためしてガッテン」2003年10月15日放送の「計るだけダイエット」に倣って朝晩体重と体脂肪率を計ることにしました。たとえ誤差の範囲であっても体重が減ったら喜んで、それを励みにダイエットを続けるというやり方。増えてしまったときは、増えた理由のいいわけを考える。「食べ過ぎたから」とか「夜遅くに食事したから」とか。このやり方だと、体重が急激に減ることはないかもしれないけれど、増えるのを防止することはできます。
で、1週間。グラフは一応右肩下がりになってます。始めたときより400g減ってます。体脂肪率は朝夕で3%ぐらい変動して、グラフがガタガタなので、よくわかりませんが。
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前田 珠子『イファンの王女』(集英社 コバルト文庫 ,1988.9,\390+税, ISBN4-08-611200-0)読了。実はこのシリーズは未読でした。
前田珠子の出世作。アルなんとかという似たような名前の王族の人達がドロドロの愛憎劇と権謀術数をくりひろげる中で、特殊能力をもったお姫様が女王になるまでを描く大河ファンタジーのイントロ……だったらしいが、中断して久しい。
今読むと内容はたいしたことないのだけれど、おおや和美の表紙イラストは今でも充分に通用すると思う。
ファンタジーを語るチャット大会で、「少女小説系ファンタジーのルーツはタニス・リー」と断言してしまったけど、これはタニス・リーっぽくないなぁ。むしろゼラズニイの〈アンバー〉シリーズか、作者があとがきで書いているように古事記の換骨奪胎っぽい。
一番雰囲気が近いのは野溝七生子『眉輪』(展望社)[→感想] なんだけど、大正14年に執筆された『眉輪』が刊行されたのは2000年になってからなので、もちろん影響があったはずはない。60年の歳月を経て(若い)女性の手によって同じような物語が書かれたことは、何か意味があるのだろうか?
ちなみに水野英子『星のたてごと』の登場は1960年。いつの時代でもロマンチックファンタジーの需要はあるということなのかもしれない。
品切れですが、amazonnのマーケトプレイスなら出ているかも。
購入ガイド
ISBN4-08-611200-0 【bk1/amazon/boople/Yahoo!】【blogmap】 【bk1(00044040)】
本の雑誌編集部編集『別冊本の雑誌 13 図書館読本』(本の雑誌社 ,2000.1,\1500+税, ISBN4-938463-85-7)読了。
こんなの出てたのね。
図書館でのお仕事潜入記や、図書館員アンケートやらの詰まったイマドキの図書館レポート。複本問題や本のリサイクルの話も出てきます。でもなんとなくウスい気がする。
図書館裏話的なところが多くて、利用するときに役に立つ本ではない。
図書館利用に役立てるつもりなら、レファレンス業務に的を絞った『まちの図書館でしらべる』【bk1/amazon/boople/Yahoo!】【blogmap】のほうがオススメ。
購入ガイド
ISBN4-938463-85-7 【bk1/amazon/boople/Yahoo!】【blogmap】 【bk1(00003160)】
榊 一郎〈スクラップド・プリンセス〉シリーズ、通称「すてぷり」の1巻〜3巻 『捨て猫王女の前奏曲』『赦されざる者達の騒動歌』『異端者達に捧ぐ鎮魂歌』を読了。
しあわせ顔のラクウェルと面倒くさがり屋のシャノンの双子の姉弟と、血の繋がらない末妹のパシフィカ。田舎街で呑気に暮らしていたカスール三兄姉妹の生活は、父の死で一変する。パシフィカが実は世界を滅ぼす「廃棄王女」で、それを知った刺客に狙われることになったからだ。シャノンとラクウェルは大切な妹を守るため、刺客と戦う決意をする――。
アニメ版が面白かったので、原作も読んでみました。アニメ版よりシリアス。ファンタジーの皮を被ったSFですな。使われている用語を見ると、ひょっとしたら仮想空間内の話なのかなという気もします。(永福一成『ライトニング・ブリゲイド』【bk1/amazon/boople/Yahoo!】【blogmap】みたいな感じか?)
カスール三兄姉妹の掛け合い漫才と兄姉妹を楽しむお話という気がします。
シャノンとラクウェルが双子の姉弟というのが、絶妙なバランスだと思いました。この二人は対等で、その下に守られるべき存在がいるという構図。兄姉妹というよりは、むしろ両親+子供の関係を薄めたような。
2巻3巻では、本来なら主人公のはずのパシフィカの内面をほとんど描かずに、別のキャラクターを中心にしてその視点でパシフィカを描写してるのが、上手いなぁと思います。そうやって、「ライトノベル」として物語を成立させているわけですね。ヘタにパシフィカの内面に踏み込んじゃうと、えらいことになるからね。
守るシャノンとラクウェルと守られるパシフィカの関係は、上橋 菜穂子『神の守り人』【bk1/amazon/boople/Yahoo!】【blogmap】[→感想]のバルサとアスラの関係とも似ている。同じ主題を児童文学とライトノベルがそれぞれどう扱っているか、読み比べてみるのも一興。
アニメになった富士見ファンタジア文庫は、割と当たりが多いですね。
購入ガイド
【bk1でスクラプド・プリンセスを検索】
ジェニー・キャロル/布施 由紀子訳『メディエーター 霊能者の祈り』(集英社 集英社文庫 ,2003.7,\619+税, ISBN4-08-760440-3)読了。
『プリンセス・ダイアリー』の作者が別名義で書いた学園幽霊バスターズ物。米国の連続テレビドラマみたいな感じです。
主人公は幽霊を見ることができる少女で、幽霊が思い残したことを叶えてやったり、なだめたり脅したりして、彼らをあの世に送る手伝いをしかたなくやっている。
母親が再婚したので、ニューヨークからカリフォルニアに引越ししてきた主人公は、転校先の学園で、ふられた腹いせに自殺して元恋人を取り殺そうとしている幽霊と対決するハメになる。
主人公の部屋にハンサムな幽霊が住んでいたり、義理の弟(3人いる)の末っ子が主人公にほのかに憧れを抱いていたりというところはツボなんだけどな。文章がもうすこしライトノベルっぽいとよかったのに。
購入ガイド
ISBN4-08-760440-3 【bk1/amazon/boople/Yahoo!】【blogmap】 【bk1(02346062)】
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手始めにコバルト文庫のファンタジーシリーズを調べてますが、ああ、私の知らないシリーズが大量に……。すみません、すみません、知った風な口きいて……。
それにしても、「平凡な高校生の主人公が実は異世界の王子/王女/救世主」という物語のルーツはなんなんでしょう?
ひょっとして、それが新井素子『扉をあけて』? それともアニメの『夢幻戦記レダ』(1985)? その前はないの?
2003/10/31追記:
掲示板で、「「平凡な高校生の主人公が実は異世界の……」の最初の作品は、高千穂遙『異世界の勇士』じゃないかというご意見ありました。鶴書房版が1979年で、徳間文庫版が1981年のようです。聖悠紀『黄金の戦士』のコミックスが1980年。
「魔法使いの学校」のルーツはゲド戦記でしょう。
「人里離れて暮らす魔女が王子様に出会う」のルーツは、『妖女サイベルの呼び声』でしょう。
「魔法使いと剣士の諸国漫遊」のルーツは、ファーファード&グレイ・マウザーでしょう。
「美形の魔王が少女と出会う」のルーツは、タニス・リーでしょう。
そのうち具体的な分類リストを出します。
クラシックな型のワンピースを作りたくて、ずっと型紙を探していたのだけれど、イメージ通りのデザインが載っている本がみつからなくて、ダメモトで「ワンピース+型紙」でネット検索したら、以下のようなページがヒット。
このあたりがイメージぴったり!
というわけで29番と35番を注文しました。型紙は500円ですが、送料と代引き手数料を加えると1790円。少し高いけど、実物大で縫い代つき、はさみで切って使うタイプなので、本を買って型紙を写す作業を考えたら安いものかも。
縫うのも難しそうだけど、気合がはいったときに頑張ります。
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あちこちで、当時現場にいた人たちが発掘作業をはじめたようで、結構なことです。
現場にいた人でないと、どこに何が埋まっているか知らないからねぇ。当てずっぽうで掘るのは本当に大変です。経験者は語る。
【PARADISE STREET:RPG風ファンタジー年表】
【土踏まず日記:2003/10/28 道標としての『ウォーロック』】
【土踏まず日記:2003/10/28 ドラマガ創刊号 対八十年代精神防御】
ちなみに私がいた「現場」は、晴海時代のコミケの創作漫画部門。当時のことはほとんど覚えてないけど、剣魔界の会誌とか中山星香FCの会誌が残っているので、それなりの資料にはなるかも。
ひかわ玲子さんたちの世代(1958年以前の人)は、SFMのムアコック特集(1974年6月号)やコナン(名探偵にあらず)に衝撃を受けた人たちで、1982年の剣魔界の会誌では、「ファンタジー」じゃなくて、「ヒロイック・ファンタジー」の話をしています。
私はもう少し年下で、ナルニア&メアリ・ポピンズから入ってSFと少女漫画経由でハヤカワ文庫FTにいったから、少し系統が違う。
小中高校時代だと、1年2年の違いがとても大きい。なぜなら小学生は読まないけど中学生は読む雑誌とか、中学あるは高校を卒業したら読まなくなるレーベルなんてのがあるから。
だいたい、12〜15歳のときに出会ったもので、人生決まっちゃうんじゃないでしょうか。少なくとも私は人生決まっちゃいましたけどね。あそこで萩尾望都に出会わなければ、私は今ここにはいない。
『丘ミキ』が全10巻だと気づかず、9巻までしか購入しなかった。抜かった。これからってところで続く。うわーん、ヘビの生殺し状態。先が読みたいっ!!
『G戦場ヘヴンズドア』は2巻が売りきれだったので、1巻のみ購入。失敗した。全部買うんだったっ!! ヘビの生殺し状態。先が読みたいっ!!
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有里 (Alisato Akemi)