小説としてはド下手。でも、テーマと問題点の把握は正しいし、多分結論が向いている方向も正しい。
助詞を省略し、時にくずれた口語体になる、目眩のするような変体少女文体、咀嚼しきれていない世界設定、若すぎる人生観、若すぎる恋愛観、魅力のない脇役の男たちと、
「大人の小説」としてはどうしようもないものであるにも関わらず「本物」の輝きはある。
これは大人のための小説ではない。だが大人になれない人のための小説ではある。
読んでそう思った。
「本物」――そう、新井素子はいつだって「本物」だ。他人の作品の「まがい物」なんて書かない。
他人の思想、他人の文体、他人の設定、他人のキャラクターを借りてきたりしない。いつだって、自分の中のもの、自分の中に取り込んだものだけを使って書く。
だから、新井素子に似ている小説はあっても、新井素子が似ている小説はほとんどなかったし、
小器用にまとめようとしない彼女の小説はあんまり巧くなかった。
新井素子は「本物」で「特別」で、しかもあんまり技量のない小説を書く人だった。
まるで「特別」で、でも天才といえるほどの技量のなかった関口朋実のように。
と、ここまで書けばお分かりかと思うが、私は『チグリスとユーフラテス』は、7人の新井素子の話だと思っている。 『24人のビリー・ミリガン』ならぬ「7人の新井素子」である。マリア・D、ダイアナ・B・ナイン、関口朋美、穂高灯、ルナ、煩雑に地の文に顔を出す作者としての新井素子、 それからレイディの7人の人格によって繰り広げられる新井素子の一人芝居だ。
ホダカ アカリと レイディ・アカリは同一人格ではない。レイディは『通りすがりのレイディ』に出てきたレイディと同一人格で、新井素子と等身大の人格・アカリに対する新井素子の理想の女性人格である。
マリア・Dおよび関口朋実と作者との共通性は、エッセイやプロフィールを読めば一目瞭然だろうし、
「永遠の少女」「最後の子供」の「ルナちゃん」は、30歳を過ぎても「SF少女」「もとちゃん」と呼ばれてしまう(自称もするのかな?)新井素子そのものだと思う。
たいした芸もないのにその性格(キャラクター)だけで宇宙船のアイドル、果ては惑星の女神になってしまう穂高灯もまた然り。
(このあたりについては、実は、『チグリスとユーフラテス』を読む前に【みのうらさん】の感想を読んでしまったので、多少バイアスがかかっている可能性はあるけれど、多分あれを読まなくても結論は同じだったと思う。)
ダイアナ・B・ナインだけは、私にはどこか新井素子なのかよくわからないのだけれど、『ひとめあなたに……』にも同じようなキャラクターが出てくるので、
この人だけはもともと新井素子の中に住んでいる「キャラクター」なのかもしれない。
この作品は、新井素子の中の「永遠の少女」である「ルナちゃん」が癒しを求めて、別人格たちを叩き起こしてまわるセルフセラピーの物語なのだ。
世界が狭いのも道理。どの人物が似たように見えるのも道理。
惑星ナインの歴史も新井素子が書きたかったことには違いないだろうが、あいにくと彼女にはその物語とセルフセラピーの物語を上手く融合させるだけの力量はなかったのだ。
『チグリスとユーフラテス』は、きわめて個人的な小説なのだと思う。結局のところ書かれているのは、「新井素子のことだけ」なのだから。
だが、あまりにも個人的過ぎる作品は、逆に社会的な意味をもってしまうこともある。(普遍的かどうかはわからない)
新井素子が自分自身の問題を掘り下げていったこの作品は、彼女と同世代の女性たちの抱える問題をも描き出してしまった。
私は新井素子と同世代で、既婚者だが子供はいない。そして30過ぎまで独身でキャリアウーマンの一種をやっていた。 だからマリア・Dの問題は私の問題でもあるし、ダイアナ・B・ナインの問題も私の問題でもある。 私にはマリア・Dの気持ちもダイアナ・B・ナインの気持ちも分かるし、とりわけマリア・Dのパートで描かれたことが、絵空事ではなく、まぎれもなく現代であり事実であり真実であることを知っている。 にもかかわらず、私があまり「痛い」思いをしなかったのは、幸か不幸か作者があまりにも下手だったからかもしれない。
私と同世代の女性たちの中には子供がいない既婚者も多いし、シングルもかなりの数である。
年老いた親を自分ひとりで見取らねばならないという覚悟をしている者も少なくない。
そしてそのほとんどの者が「親になれない者は、永遠に子供でいなくてはならないのかもしれない」と心の底で思っているのではないだろうか。
90歳の老婆である「母」に抱かれる70歳の老婆の「娘」の姿は、そんな私たちにとっては、リアルで明確な未来のビジョンなのだ。
自分が母になってしまった人にとっては、そうでもないかもしれないが。
ルナを「最後の子供」でなくすためにレイディ・アカリが取った手段はそれほど画期的なものではない。
(私は、自力でその解法にたどり着いた人を何人も知っている)
しかしそれをこうして、作品として世に出したのは画期的なことだと思う。なにしろ、今まで誰もそのことについて書かなかったのだから。
(橋本治はソレを実践して「大人」になった人なのだが、他人にわかりやすく説明してくれる人でもないのだ)
『チグリスとユーフラテス』は、小説としてはどうしようもなく下手な作品である。
人によっては全部を読み通すのは拷問に近いかもしれない。
だがその下手さにも関わらず、切り捨てていい作品でもないと思う。
ということで提案する。『チグリスとユーフラテス』を、マンガ化もしくはアニメ化するのはどうだろうか。
なにしろ最大のネックはあの「素子節」ともいえる変体少女文体なのだ。それがなくなっただけでも、この作品の受け入れやすさは飛躍的に向上するはずだ。
実際、文月今日子がマンガ化した『グリーン・レクイエム』は、原作を上回る出来だった。
その文体のおかげでうっかり忘れてしまいがちなルナの異様さも、視覚化映像化されることで、常に読者の前に突きつけられることになる。
キャラクターデザインは大友克洋なんてどうだろう。『アキラ』に出てきたあの子どもたちを思い浮かべていただきたい。
ぜひとも実現して欲しいと思う。(無理かもしれんけど)
最後に、『チグリスとユーフラテス』はSFかどうかについて。
SFだと私は思う。「天皇制」だの社会制度だのについて触れようとした部分はむちゃくちゃだが、
少なくともラストは『ネプチューン』のテーマを継いだSFであろう。
SFだからこその「救い」も残されている。
実をいうと『チグリスとユーフラテス』を読む前、あちこちから聞こえてくる「きもちわるい」という感想を耳にして、
もはやSFは女を救えないのかなと思っていたのだ。
かつてSFは「ある種の少女」を救った。新井素子はその典型だった。(今は、「やおい」が少女たちを救っているのかもしれない。)
もしSFがなかったならば、多分彼女は生きていくのが難しい種類の人間だったと思う。彼女がSFを書いて、SF界がそれを受け入れたのは、彼女(と彼女と同じような種類の少女たち)にとって幸運なことであったのだけれど、
ちょっぴり不幸なことでもあった。だって、SFによって居場所を与えられた新井素子は「永遠のSF少女のもとちゃん」になってしまったのだから。
私は、冬の時代のSFと一緒に「永遠のSF少女のもとちゃん」も閉じこもったまま干からびていくのかと思ったのだが、どっこい彼女はしぶとかった。
ちゃんとなにが問題かは分かっていたのだ。本当は子供ではなかった「ルナちゃん」と同じように。
残された問題は、あの変体少女文体をどうするかだと思う。(どうにかしてくれ!! と、切実に私は思うが。) ひょっとすると、日本のSFの未来は、サイフィクトがどうしたということよりも、新井素子が大人の鑑賞に耐える文体を身につけるかどうかで決まるのではないか、と思ったりもする。
By 有里 alisato@anet.ne.jp