1999.09.10

芝田勝茂『星の砦』

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 芝田勝茂『星の砦』(評論社)読了。

 6年生のけいこごとや学校行事への参加を禁止し、学校生活を受験一筋にしていこうとする学校ファシズムに対抗する 男女混合の「おちこぼれクラス」6年5組の32人の物語 ――と書くと、『がんばれベアーズ』の小学校版のような気がするでしょう。でも、物語はひたすらシリアスに展開していき、6年5組のみんなが楽しみにしていた学校祭では、 懸命に練習した合唱も、せっかく作ったクラス発表のプラネタリウムも、学校と他の6年生たちの妨害にあい、全校生徒の前で発表できなくなってしまう。 失意のまま、プラネタリウムの中で星を見上げる6年5組の子どもたち。

 こういう話では、ストーリーの着地地点は3つしかありません。「勝つ」、「負ける」、「結果を示さずあいまいにしておく」です。 しかしながら、YAと呼ばれるような思春期向けの小説ならともかく、児童文学では、「負ける」、「結果を示さずあいまいにしておく」なんてのは許されることではないのですね。 ですから結末は、子どもたちが学校側に「勝つ」しかあり得ないんです。が、いったいどういう奇跡を起こして、この状態から「勝つ」状態へ持って行くんだい、と、思ったらなんとなんと……。

(以下ネタバレのため、文字を背景色と同色にしてあります。マウスで選択して反転させてお読みください)
 SFになってしまった! なってしまったというより、SFに逃げたという方が正しい気がしますが。(こういう使い方をされると、SFの人は怒ると思う。) しかもネタが遺伝子組換の改善種と非改善種との星間戦争ときたもんだ。おい、おい、おい……。  そして、このSFのパートから、物語は現実の世界へと戻り――ストーリーはかろうじて「勝つ」の側に着地する。
(ネタバレおわり)

 着地地点は悪くない、というより、ここが唯一の着地可能地点ですね。しかし、そこへ至るまでのアレは……うーん。 唐突すぎるというのもありますが、なによりも物語が語るのではなく、作者自身が語ってしまったような気がします。 (福音館版『ふるさとは、夏』で感じた違和感もその点にあります。 冒頭に出てきた両親であれば、あの場所でああいう台詞は言わないはずなんです。) 作者の言葉を語るためには、子どもたちでは具合が悪かった。だから、ああなった――ように私には思えます。

 で、私の感想ですが、まず物語の中での自分の位置の設定に苦労しました。本来でしたら主人公の圭の肩に乗っかっていればいいんですが、 なにしろ松岡夕子とパリーを見た瞬間に反感を持ってしまった(苦笑)ので、圭に感情移入するわけにはいかなかったのです。 で、しばしさまよったあげく、ようやく谷脇君と工藤真弓という感情移入できる対象を発見しました。 ふたりともハグレ者の秀才さんってのが、なんともいえませんが。(笑)

 私は小学校では目立たない子「よい子」でした。中学校では、ハグレ者でした。 ちょうど松岡夕子とパリーのようなクラスの女王様たちが牛耳る「なかよく一致団結」したクラスの中で、私ともう一人の友人だけが浮いていました。 そのせいでしょうか、個性を尊重して一致団結している6年5組の物語をちょっとばかり皮肉な目で見てしまいます。 あなたたち、本当に自分の意志で行動してる? クラスのオビニオンリーダーに引きずられていない? 学校から孤立しているクラスの中でさらに孤立することはとっても恐いことだからね。
 谷脇君に妙に感情移入してしまうのは、彼だけがクラスのオビニオンリーダーに対抗しうるだけの冷静さと能力をもっていたからだと思います。

 3章に入るとさらに顕著になる一種の「選民意識」が、私にはなにかとっても気持ち悪いんですけど……。

 そういえば、他のクラスの子どもたちの顔が全く見えないのが不思議でした。 確かに隣のクラスの子の名前なんて覚えていないのが、小学生の世界観なんですけど、 でも5年生のときのクラスメイトとかクラスが違っても近所の子というのは、いるでしょうに。 他のクラスの子たちからは、本当に敵意しか感じられないのかどうか。せめて何人かは羨望の目をしている子の顔が見えてもいいだろうにという気はします。 ラストシーンにつなげるためにも。

 あと、逆切れして職員室の成績一覧表を破り捨てて休職してしまった柿沢先生も気になります。 彼がパニックを起こしたのはなぜでしょうか。おのれの保身に失敗したと感じたからでしょうか。 子どもたちを「守れなかった」からでしょうか。後者であってくれればと思います。

 この感想文を書くために3章から終章までを読み返してみたんですが、そこだけを読めばそれなりに感動的なんですね。 でも1章から通して読むと、やっぱりなんかヘン。

 コミカルな雰囲気で『がんばれベアーズ』にすれば楽だったのに、なんだってシリアスにしちゃったんだろうと思いながらタイトルをじーっと眺めていたら、 「砦」の文字にひっかかりました。で、ぼーっと連想ゲームをしてみたら……
『紙の砦』? 手塚治虫? うーん、ちょっと違う。篠田真由美の『灰色の砦』? んっ!? 芝田勝茂って何年生まれだ? 1949年生まれ? おおっ、「24年組」じゃん!
(1999.09.09修正 以下、有里の偏った知識による不正確な世代イメージです。)
 「24年組」、ベビーブーマー、団塊の世代、またの名を「ゼンキョートー世代」。スローガンは「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために」
 この物語の作者が「ゼンキョートー世代」だと分かったとたん、ひっかかっていた紐がいきなりほどけました。なぜ「砦」なのかとか、なぜ「合唱」なのかとか、なぜ一致団結なのかとか、なぜ「最後のメッセージ」なのかとか。
 うーん、これってもしかして小学生を主人公にした「ゼンキョートー」小説(注1)ですか?

(1999.09.09 追記)
注1:  というのは私の疑問は大いなる誤読であったらしい。
 そもそも「全共闘」世代という言葉に対して私がもっているイメージが正しくなかったようだ。
 私が「ゼンキョートー」(カタカナにします)という言葉に抱いていたのは、「何やら理想を持っていて一致団結して運動してたのに追いつめられて砦に立てこもって、 たてこもっているうちに理想とやらも変質していって内部崩壊して最後に外から突き崩されて負けちゃった人たち」というイメージで、このイメージの後半部分を「正しく」やり直そうとする試みだったのだろうかな〜? というのが私のいいたかったことなんですが……。う〜ん、違うのか。
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By 有里 alisato@anet.ne.jp
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