赤木かん子 著作紹介(雑誌記事)


赤木かん子 著作紹介(雑誌記事)

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「アダルト・チルドレンと<児童文学>」

(青土社『ユリイカ』97年9月号 特集:児童文学 p.176-185 )

 『ユリイカ』97年9月号「特集:児童文学 イノセンスの怪物」に載ったロング・インタビュー。
 かん子さんは、最近では「本の探偵」というより「アダルト・チルドレン(AC)問題に詳しい人」として有名になっているようです。 朝日新聞でのヤング・アダルトの紹介コラムをやっていたころから、「傷ついた子供」について語ってきた人だから、確かにこの問題について10年以上のキャリアがあるわけですね。

 以下、インタビュー内容についての簡単なまとめとコメントです。
『ユリイカ』は、書籍扱いの雑誌なので、バックナンバーも比較的楽に手に入ります。面白いので、ぜひぜひ本文を読んで見てください。

「わたしが『本の中のこども』だったころ」
 かん子さんが子どもだったとき、「毎日霧の中にいたようなもので、本の中のことが本当で、現実は嘘の世界だった」。 14歳のときに、「しまった、こっちの方が現実だ」と気づいたそうで。これを読んだときに、どうしてかん子さんが「おたく」を嫌うか、 どうして 『きのうのぼくにさよなら』※なんて本に反応するのか、わかった気がしました。

「児童文学とは?」
 児童文学とは、「子どもの皮膚感覚を使った書いた文学のジャンル」だというのがかん子さんの定義。 そして、大人が子どもの本を選ぶことに関して辛辣な(だけど、真実だと私は思う)意見を述べています。長いけど、引用します。


----- 引用開始 -----
子どもの本に関わる人は、「子どもには”いい本”を与えなくちゃいけない」と思い込んでいる人が多い。そういう”いい本”を選ぶ自分はいい人なんだと。 でもそれは、子どもを食い物にしている。でもそれに気がついてない。(中略) 自分がいいと思う本を、子どもがいいといってくれるのが嬉しい、それは自分がその子を支配したい、と無意識に思っているんです。自分の言うことを聞く子どもがいい子供、 他人を支配すると自分の無力感がはらせる、気持ちがいい、つまりは病んでいるんです。(p.178)
----- 引用終了 ----


「子どもの本の作者たち」
 秀れた子どもの本を書く人には二種類あって、ひとつは、「傷つけられた子供」のまま大人になちゃった人(いわゆるACですね)で、もうひとつは、大人になっても子どもの気持ちがわかる人。 ケストナーも、A.A.ミルンも、ジェームズ・バリーもACだったという話。

「『現実』と闘う児童文学」「傷ついた子をどう助けるか」「児童文学からヤングアダルトへ」
 このあたりは、児童文学とヤングアダルト文学のテーマと効用についての話。

 ところで、この中でかん子さんは、「わたしが子どものときには、先生は生徒を愛していたんだよ。」って言っているけど、 それは違う〜。昔から生徒を愛せない先生、生徒をいじめる先生は存在しました。かん子さんが出会わなかっただけ。 もっとも、現在では、生徒を愛せない先生が大部分になってしまったというのは、事実でしょうが。
(97.10.16)


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「『本を読め』なんていわないで」

(『子どもと教育』1992年10月)

 『子どもと教育』1992年10月に掲載された、Q&A形式の記事です。『別冊 烏賊 No.42』に再録されているのを読みました。
 1984年に本の探偵でデビューしたかん子さんは、1997年には、AC(アダルト・チルドレン)に詳しい人として世に知られるようになるわけですが、 このほぼ中間地点の1992年に、かん子さんは「子どもの本を追求していったら、いまの日本の病的状態に気付いてしまった」(同記事作者紹介より)らしいです。

 この記事の中でかん子さんは、本を読んであげるのは人に服を選んであげるのと同じように難しいと答えています。 子どもが面白がってなおかつ必要な本を出す為に必要なのは、子どもに対しての洞察力、商品知識(というより本の値打ちを見抜く目)、そして世の中に対する洞察力だと。
 そして、「自分にとっておもしろい本は、ほんとうはそんなにたくさんない」「文化は本だけじゃない」と言い切り、最後にこんな言葉で結んでいます。

----- 引用開始 -----
 ねえ、ほんとうに本を知っているひとは、やたらに他人に「読みなさい」とはいわない。 でもその子がつまずいたりしているときには、この本が役立つというものをすっと出せるものなのよ。
----- 引用終了 -----


 「ほんとうに本を知っているひと」が増えてくれることを願います。

(98.09.18)


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「ティーンを知るための本の話」

(太郎次郎社『ひと』1992年7月号〜1993年1月号)

 『別冊 烏賊 No.42』の再録記事の注釈によりますと、

----- 引用開始 -----
いま本の話をしようとすると現代の病理を放さないわけにはいかず、それを話始めると、いったいどこから語っていったらいいのかわからない (つまり、えんえんとあるからさ)とうこまったハメになってしまいます。(『別冊 烏賊 No.42』p.32)
----- 引用終了 -----


 ということで、始めた連載らしいです。
第一回目のテーマは、「拒食と過食」。
『鏡の中の少女』※(スティーブン・レベンクロン), 『キルト ある少女の物語』※(スーザン・テリス)、 『ダイエット』※(大島弓子)などが取り上げられています。

 この記事の中で「食べすぎの理由は年代がちがうとこれだけちがう」という一文がありまして、「ゆうべ食べ過ぎちゃった」といったら 30代以上の人(1992年の話ですから昭和30年代生れの人たち)は、「なんかおいしいものがあったの?」という発想をするが、 10代20代(昭和40年代以降に生れた人たち)は、「なんかいやなことがあったの?」という発想をするというのですね。 で、お互いにお互いがそういう考え方をしていることを知らない。
これを読んで、へぇと思いました。私も30代ですから、美味しくて食べ過ぎるという発想しかなかったもので……。

 かん子さんは「拒食や過食に逃げたって心の問題は解決しない」「逃げたら倍返しよ……!」と書き、それは全く正しいことだと私も思うんですが、 こういう異常にバイタリティのある人に言われたって、”ビョーキ”の人に届くわけないよねぇ、とも思います。
 この「ティーンを知るための本の話」は、何にもしらない人と”ビョーキ”の人との橋渡しとして書かれた文なので、これはこれでいいのかもしれませんが。

 私が以前から気になっていた、”ビョーキ”と”オタク族”の一応の語句の説明は、第一回分が再録された『別冊 烏賊 No.42』の手書き部分の注釈にありました。 長いですが、引用します。

----- 引用開始 -----
ここで軽く、字句の説明、をやりますと、まず、 『ビョーキ』 ね… こうやってカナ書きで書かれた場合、 それは肉体的なものではなく、かといって昔からある 正統派(?)の精神病ではなく、1970年代以降、日本中に 広がってしまった、精神的な病い、をさします。
いまの日本は単純にいってしまえば、この、 あぁ、あの人ってビョーキよね、という文章が理解できる人間と できない人間の二種類による二重構造になっているのです。 そうして、わかっている人間にはそれこそ、 ひとことの説明もいりませんが、 わからない人間にこれを説明するのは実に大変なことなのです。

たとえば、いわゆる"オタク族" ――本質的なことはなにも できなくて、さまつなことに異常にこだわる人たち―― もビョーキです。オタクの特徴は、話していると イライラしてきて、だからいったいそれがどうしたってのよっ! と怒鳴りたくなるところです。

そしてこのビョーキの原因はなにかといったら、これは 明白で、 『愛情不足』 のひとことです。 (『別冊 烏賊 No.42』p.32〜28)
----- 引用終了 -----


 かん子さんのいう”オタク族”っていうのは、一般に言われているように、 非社会的でマンガやアニメやゲームといった趣味に没頭する人という意味ではないようです。 ひとつのことに熱中するあまりバランス感覚を欠いた人とでも解せばいいのでしょうか。 イメージはなんとなくわかりますが、残念ながらちょっと説明不足ではないかと思います。

(98.09.18)


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更新日:2001/10/20